部室に荷物を放りおき、着替えようとしたところで彼は

ふと数学のプリントを机の中に残してきたことを思い出した。

残暑の厳しい9月の終わりに、それはたいした課題ではなかったので

明日の朝早めに登校して済ませれば良いことだったけれども

几帳面な彼の性格がそれを許さなかった。

お疲れさまでしたの声とともに、部室からは少しずつ人がながれてゆく。

外にはまだ山の端に隠れた太陽の光がわずかに残っていて、

薄闇と溶け合ったそれはなんとも言いようのない青みをあたり一面に漂わせていた。

水で薄めた青の水彩絵の具を、そこいらじゅうにまきちらしたようで彼は少し息苦しくなった。

校舎だけがくろぐろとそびえ、コンクリートの壁面に闇がぬりこめられている。

彼は帰り支度を済ませて仲間に挨拶をし、躊躇いなくその中へ足を踏み入れた。

   

部活終了後、電灯がともっているのは職員室と生徒会室くらいなもので

わざわざ明かりをつけることもないだろうとほのぐらい廊下を歩いた。

窓の外には木々のシルエットが黒くはりついて早く帰れとささやいていた。

―この時間はお前の領分ではない。

そう警告を受けている気さえして彼は足をはやめた。

 

ガラガラと、ドアを開ける音は普段の倍響き、彼はそれを少し不快に思った。

それから数学のプリントを探すために教室の電気をつけようとまさぐったその瞬間

室内に誰かがいることに気がついて息を呑んだ。

窓際の席で誰かが机につっぷして音もたてずにそこにあった。

薄闇のなかに抗うこともなくじっとしているその制服姿は

夜の浜辺に打ち上げられた魚のようでひどく弱弱しい印象をあたえた。

「お願い、電気をつけないで。」

「…誰だ?」

言いながら、見当はついていた。

彼の問いは単純な疑問というよりも、確信を得た上での詰問のようであり、

彼の前で疲れた様相を呈していた魚はするりとクラスメイトに戻ると

乱雑に並ぶ机の端で気だるそうに上半身を起こし耳からウォークマンをはずした。

「あー。もうこんなに暗くなっちゃった。」

「染谷、一体こんな時間に何をしているんだ。」

「キミこそ。あれ、だって部活でしょう?」

「もう終わった。忘れ物をとりにきただけだ。」

何でもできる優等生が忘れ物なんて珍しいねと彼女はくつくつ笑い、

彼はかすかに顔をしかめて自分の席からプリントを取り出した。

「こんな時間まで電気もつけずに、誤って鍵でもかけられたらどうするんだ。」

プリントを鞄の中にしまいながら投げかけたその言葉に、彼女を咎める意志はなかった。

「んーちょっとね。学校終わってもまだ暑いじゃない、帰るの。

だからもう少し日が沈んでから帰ろうと思ってぼんやりしてたらね。」

窓に背をあずけて暇をもてあます子供のように足をぶらぶらさせて彼女は柔和な顔でそう返した。

白皙のゆり子のおもては夕暮れの終わりに奇妙に浮かび、一片の花弁のようにうつった。

  

「帰らないのか?」

机の上に散らばった飴の包み紙、ウォークマン、ヘアピン、中身がこぼれたペンケース。

それらが、無言のうちにまだ帰らないことを主張していた。

彼は短く嘆息すると、彼女の前の席に腰を下ろし、同じように窓にもたれかかった。

思い出したようにじりじりと蝉が鳴き始めた。

戸締りの教師がじきに回ってくるだろう。それまでには帰りたいと彼は思ったが、

ゆり子にはそんなことはどうでもいいようだった。

「キミはほんとうに委員長体質だねえ。」

自分が帰らなければ彼も帰らないことをゆり子は知っていた。

本来関係のないことにまで責任を負って、黙々とこなす。

疲れるとか疲れないとか、そういう次元ではないのだろうと想像していた。

だが本当に愛想がつきれば、この男は勝手に帰るだろうと彼女は思った。

ゆり子は鞄をかきまわして飴をとりだすと、クラスメイトにすすめたが彼は断った。

断られた飴は、そのまま彼女の口に放り込まれ、包み紙がまたひとつ増えた。

  

「ねえ、胎教って知ってる?」

ウォークマンからカセット・テープを取り出して、長方形の対角を中指と親指でつまみ

くるくる回して見せる。

ゆり子はクラスメイトの反応を待たずにしゃべりだした。

「お腹の中の赤ちゃんに音楽を聞かせると頭がよくなるとかいうじゃない?

特にモーツアルトとか。これはシューマンなんだけどね。」

手塚は目の前にいる少女がなぜそんな話をするのかが解せなかった。

「染谷、お前まさか…。」

「え?ああ、違う違う。私そんな経験ないもん。」

経験が何をさすか、お互い暗黙のうちに知識として知っていたが

内心気まずい思いをしたのは男の方だった。

「私がお腹にいた時にね、この曲聴いてたんだって。母は胎教なんて知らなかったみたいなんだけど。

なんか不思議でしょう、14年も前に、それもこの世界を目にする前に聴いてたのよ。

別にお腹の中にいた頃のことなんてちっとも覚えてないんだけどね

この曲を聴くとなんとなく自分はシューマンが好きだなあと思うんだ。」

いつも眠たくなってこうして寝ちゃうんだけどねと、ゆり子は笑ってみせた。

つられて彼も口元をゆるめた。

  

「時々これを聴いているとね、母のお腹の中に入っていた頃のことを思い出そうとする自分がいるの。

思い出せるはずもないんだけど、でもいつかはふっと思い出せるんじゃないかって。

お腹の中には私ひとりしかいなくて、この世界のどこからも守られていてさ、

羊水にぷかぷか浮んで私ひとりだけの世界にずっと閉じこもってるの。

それで母は私を孕んでたときだけは神様だったんじゃないかって思うんだ。

母は母なんだけど、でもお腹に入ってるときは分からないじゃない、外のこと。

だからあのとき私は神さまの中にいたんじゃないかって、そんな気がするの。」

そこまで言ってふふと微笑む彼女の顔は薄闇にふちどられて、異国の神様のようだった。

「矛盾してるな。」

彼の顔は優しかった。自分は今どうするかで手一杯だったが、そういう考えも悪くないなと思った。

「うん、そうかもしれない。でもいつか絶対思い出す。」

「ああ。」

「私ってマザコンかな。」

ゆり子が蛇のようにちろっと赤い舌を出して、すぐにひっこめた。

少し罰の悪そうな、けれども小さな悪戯が成功したときの顔だった。

「いや。」

「そっか。…くだらない話に付き合わせちゃったし、帰ろうかな。」

くだらないとは思わない、と反駁するタイミングを失って、手塚も席を立った。

教室はもうほとんど暗くて、足元には闇がたまり始めていた。

「早く帰ろう。」

これ以上ここにいてはいけないような気がして、彼はゆり子を急かした。

  

ふたりで一緒に校門を出て、ゆり子の乗るべきバスが来るまで彼もそこにいた。

あっという間に暗くなり、校舎はすっぽりと夜のとばりに包まれてしまった。

ゆるゆると闇を裂くようにバスのヘッドライトが見えて、それは次第に近づいてきた。

「バスがきたね。これはキミにあげる。」

ゆり子はバスを確認すると、鞄の中から裸のカセット・テープを取り出した。

「いいのか、俺がもらっても。大切なものなんだろう。」

「家にCDあるからまた録音すればいいし、今日のお礼。」

「そうか。」

「じゃあ、また明日。」

男の代わりにゆり子がありがとうと残し、バスに乗っていった。

 

一人になった夜のバス停で、彼はいつか彼女が子供を宿したときに

またシューマンを聴くのだろうかと考えた。

    

   

―04/03/20

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